【【企業】謎に包まれたDMM.com会長の経営術、露天商から起業して年商2000億円への道のりとは】の続きを読む何をやっているか分からない。いや、分からないからこそ強いのだ。動画配信やFX、ロボット事業まで展開する「DMM.com」亀山敬司会長(55)に話を聞くと、そんな気になってくる。年商2000億円ながら一切素性を公開しない経営者。ノンフィクションライターの山川徹氏が、その異端マネジメントの真髄に迫る。勢いを象徴する風景である。東京・恵比寿ガーデンプレイスタワーのDMM.com受付フロア。様々な人種の人たちがひっきりなしに出入りしていた。サラリーマン風の人に、パーカーにリュックといった学生らしい若者たち。アーティストっぽい出で立ちの女性も公務員のようなスーツ姿のグループもいる。なかには杖をついた高齢者もいた。人種と書いたのは比喩じゃない。ソファで順番を待つのは白人の男女で、オフィスから出てきたのはダウンジャケットを着た黒人青年だった。ガラス張りの会議室で会長の亀山敬司は、拍子抜けするほど肩の力が抜けた口ぶりで、飾らずに語った。「昔は人前で語るのがイヤだったんです。語るぐらいならやってみろと思っていたから。でも、いろんな事業で目立ちはじめると『DMMはやくざだ』とか根拠がないことを書かれるし、若い連中が悔しいから説明してくださいよと言うし。それで、しゃべるだけなら、とメディアなどに出はじめたのが2、3年前かな」亀山は謎の経営者と呼ばれる。いまもメディアに顔をさらしていない。有名タレントを起用したCMなどでDMM.comの知名度はうなぎ登りだが、創業者である亀山については一般的にはまだあまり知られていない。謎が憶測を呼ぶのか。検索エンジンに〈亀山敬司〉と入力すると〈年収〉〈顔〉などという関連キーワードとともに〈やくざ〉〈山口組〉〈北朝鮮〉という不穏な単語が根拠なく並ぶ。DMM.comの躍進と亀山の歩みを合わせて知れば、そんな邪推をしたくなる気持ちも分かる気がする。亀山は1961年、石川県加賀市で生まれた。19歳ではじめた露天商を皮切りに、石川県でのレンタルビデオ店の経営、アダルトビデオ販売を経て、インターネットでの動画配信などをはじめる。その後、手がけたFX事業では口座数業界1位にまで上り詰める。さらにオンラインゲーム開発、英会話、3Dプリンターを使った物作りや太陽光発電事業、水族館事業などを幅広く手がける。そしていまグループ全体の売上高は2000億円に達する。なんでも取り入れてしまう器の大きさに、無節操さを感じてしまう人も多いのではないか。しかしだからといってビジネスが成功するわけでは、もちろんない。亀山は言う。「子どものころから家の商売を手伝っていたせいか、お金が欲しいというよりも、稼ぐことに面白さを感じていた。だから露天だろうが、アダルトだろうが、太陽光だろうがなんでもいいと思っているところはあるかもしれない」──実家はどんな商売を?「呉服屋やカメラ屋、うどん屋、海の家、そしてキャバレー。いろいろやってましたね。一滴も酒が飲めないオヤジがキャバレーやっていたわけだから、ビジネスに対してこだわりがなかったんだろうね。商売をやりたいと思ったのはオヤジの影響が大きいかな」農家出身の亀山の母は、呉服屋に嫁にきたはずが、いつの間にかキャバレーのママにおさまっていた。「オレは『母ちゃん』って呼んでいたけど、周りは『ママ』でしたね。子どものころは住み込みで働く訳ありの女の子たちにかわいがられていました」高校を卒業した亀山は、税理士を志して上京。大原簿記専門学校に入学するが、教師に「これから税理士は儲からないよ」と言われて中退する。居酒屋やホストクラブでアルバイトをしていた時期に六本木で露天商の女性と出会った。御徒町で鎖や皮を仕入れてアクセサリーを作り、原宿や代々木で売りはじめた。初日の売り上げは1000円だった。「専門学校を辞めたのは勢いで、露天商をはじめたのは成りゆきだった」と振り返る。露店を出して警察に怒られたり、やくざに「誰に断ってやってんだ」と凄まれたりもしたが、そのたびに新たな場所で店を出した。稼げると分かると仙台の七夕祭りや青森のねぶた祭りなどにも遠征した。「寅さんみたいなもんです。当時は怖いものなしで、人通りが多い道があったら取りあえず露店を出しちゃえ、と。ゲリラのような感じでしたね」──ゲリラですか(笑)。(続く)